一度に書こうと思ったのですが、意外と長くなりそうなので1と2に分割しました。今回は前回の続きから始めます。
2、帝国の絶頂期
一時は戦火を交えたビザンツ帝国とも友好関係となり、クーデタにより帝位を追われたビザンツ帝国皇帝ユスティニアノス二世を帝国内に亡命させ、可汗の姉妹と結婚させることでさらにビザンツ・ハザール両帝国の関係は強化された。ちなみにユスティニアノス二世は自分の妻の名をユスティニアヌス一世の妻の名にあやかってテオドラ(女帝とさえ呼ばれる彼女の数奇な人生もなかなか興味深いので次の機会にでも書きたいと思う)と改名させた。また、ビザンツ帝国内部でも、官吏として登用されるハザール人が少なくなかった。ビザンツ帝国へは略奪を繰り返していたルーシ族とも関係は良好で、ルーシ族に対抗するためビザンツ帝国とはさらに親密になり、その上ビザンツ帝国やアラビア地方へ行くルーシ族へ通行料を課し財政も潤いここに帝国の一大絶頂期が到来したのだ、そしてついに9世紀初頭にはユダヤ教へ改宗し史上初となる非ユダヤ人によるユダヤ教の国が誕生したのである。
↑これはユスティニアノス二世を描いた当時の金貨である
3、帝国の衰退
そんな帝国の絶頂期も長くは続かず、10世紀を迎えるころには帝国は衰退へ向かった。帝国の衰退はまず内部から始まった。かねてよりイスラーム教国であったハザール帝国はユダヤ教の国教化に対し親イスラーム的である地方貴族と、親ユダヤ的である帝国大貴族に分裂し、この支配者層の動乱の中で被支配者層が反乱を起こしたりと一時国中が混乱を極めた。その混乱が落ち着き始めると今度は帝国の重要都市のひとつであるキエフがルーシ族によって奪われてしまったのだ。このことにより帝国の衰退が吐露され、それまで貢納国であったヴォルガ・ブルガール国が離反してしまった。決定的となったのは、敵対状態であったビザンツ帝国とルーシ族が和解したことによりビザンツからも必要とされなくなったことである。逆にルーシ族とビザンツ帝国を結ぶルートをおさえ、通行料をとるハザールは邪魔にすらなり始めていた。
↑かつてのハザールの重要都市、キエフ(現・ウクライナ共和国)
4、帝国の崩壊
国内の混乱・ビザンツ帝国との不和・そして外敵キエフ公国(ルーシ族)の台頭と処理すべき問題が山積みであった帝国だが、ついに965年にキエフ公国ビャトスラフ一世の大遠征によって帝国の最終防衛戦を担っていたサルケル砦が陥落すると首都であったイティルも攻略されてしまい、帝国は実質崩壊した。
↑帝国の最終防衛線であったサルケル砦跡(1930年代に撮影)
ーー出典ーー
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fha100.html 山川出版 『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』P,157~P,169
0コメント